5-6 ICNIRPガイドラインとはどのようなものですか?
非常に強い電磁波(電磁界)に人体がばく露されると、健康への悪影響が生じる可能性があります。この悪影響から人体を防護するため、どのようにばく露を制限したら良いかを示すのが、ガイドライン(防護指針)です。最も広く利用されているのが、国際非電離放射線防護委員会(ICNIRP)のガイドラインです。
ICNIRPガイドラインは、同じ分野の研究者による審査(査読)を経て学術誌に掲載された、膨大な数の科学論文を根拠としています。査読された論文は信頼性が高いとみなされますが、その全てがガイドラインの根拠になるわけではなく、同様の条件で同様の結果が反復して認められているかどうか(再現性)を確認すること、また「健康への悪影響が認められた」という結果の論文が受理されやすく、「悪影響が認められなかった」という結果の論文が受理されにくい傾向(出版バイアス)を排除することなど、査読された論文であっても、その内容を精査する必要があります。ICNIRPはガイドラインのばく露限度を策定する際、個々の論文を精査し、そこで示された科学的な証拠の重みを判断した上で、総合的に判断しています。
おおむね100 kHz(キロヘルツ)までの非常に強い低周波電磁界には神経や筋を刺激する作用(刺激作用)、おおむね100kHzを超える非常に強い高周波電磁界には生体組織を加熱する作用(熱作用)があります。身体は、刺激に対して不快感を覚えたり、熱に対して汗をかくといった反応をします。これらの反応は「生物学的影響」と呼ばれるもので、その要因が取り除かれれば元に戻り、必ずしも健康への悪影響とはなりません。これまで数十年間にわたり世界中で実施されてきた膨大な研究で、生物学的影響が身体の調整能力を超え、健康への悪影響を生じるばく露レベルが明らかにされています。また、これらの作用には、作用の強さに関係するばく露強度の「指標」があり、その指標と影響の大きさとの関係が明らかにされています。
具体的には、低周波電磁界の刺激作用については頭部の中枢神経系および身体の末梢神経系に誘導される「電界強度」が、高周波電磁界の熱作用については身体に吸収される電磁界のエネルギーの体重に対する比率である「比吸収率」(SAR)※がばく露の指標です。これらの作用には「しきい値」(反応を生じる刺激の最小値)があり、このしきい値に基づいて必要に応じて適切な「低減係数」を適用することによって安全上の余裕を盛り込み、ガイドラインの制限値が導かれます。この制限値は、「基本制限」と呼ばれます。
※比吸収率(SAR):生体が電磁界にさらされることによって、単位質量あたりの組織に単位時間に吸収されるエネルギー量をいいます。単位はW/kg(ワット/キログラム)で表されます。SARの大きさは人体の各部で異なります。熱作用を評価するためには、全身で平均した「全身平均SAR」、局所の10gの組織で平均した「局所SAR」が使われます。
人体防護のためのばく露評価は、この基本制限に基づいて行う必要がありますが、体内の電界強度やSARは人体の組織内部での電磁気学的な量であり、直接測定することができません。このため、ガイドラインでは、適切な人体モデルとばく露条件を仮定して、体内の電界強度やSARを、それらを生じる人体外部の電磁界強度などの測定可能な物理量との関係を推定することで、その測定可能な量の値をばく露評価のための「参考レベル」として示しています。
参考レベルは、人体外部の「電界強度」や「磁束密度(または磁界強度)」、「電力密度(または電力束密度)」などの測定可能な量で表され、ガイドラインへの適合性評価を実際に行うために利用することができます。参考レベルは電磁界と人体との結びつきが最大となる場合を想定しているので、電磁界の測定値が参考レベル以下であれば、基本制限が満たされます。測定値が参考レベルを超える場合でも、ただちに基本制限を超えるとは言えず、その場合には基本制限を満たしているかどうかを、より詳細な評価(例えば、人体モデルを用いたシミュレーションや測定)で確認する必要があります。
刺激作用や熱作用は、ばく露の直後に生じます(短期的影響ともいいます)。ICNIRPガイドラインは、短期的影響であるか、または発生に長い時間を要する影響(長期的影響)であるかに関わらず、全ての健康への悪影響を防護しています。
電磁界などの作用因子への職業環境(職場)における労働者のばく露を「職業的ばく露」といいます。一般的に、労働者は健康であり、また作用因子へのばく露によって生じる可能性のある影響から防護するための対策(例えば防護具の着用)が講じられ、その影響を回避・緩和するための訓練や教育を受けています。一方、作用因子への生活環境における一般人のばく露を「公衆ばく露」といいます。一般人には、子どもから高齢者まで全ての年齢、様々な健康状態の人が含まれており、ばく露に気づいていない場合が多いです。このため、公衆ばく露に対しては職業的ばく露よりも厳しい制限値が策定されています。ICNIRPのガイドラインも、この考え方に基づいています。
ICNIRPは、常に最新の科学的知見に照らしてガイドラインの見直しを検討しています。ガイドラインの根拠となったレベルよりも低い電磁界ばく露によって健康への悪影響が生じることを示唆する新たな証拠が認められた場合には、改めてリスク評価が行われ、その結果に基づいてガイドラインを適宜改定することになります。実際に、ICNIRPは2020年に、高周波電磁界についてのガイドラインを改定しました。これは、第5世代移動通信(5G)などでの利用拡大が予想される高い周波数帯[6GHz(ギガヘルツ)以上]における新たな知見を反映したものです。また、低周波電磁界についても、ICNIRPはガイドラインの改定に向けた作業を開始しています。