パラケルススが亡くなってから約200年後、フランス革命前にフランツ・アントン・メスメルが登場し、磁気催眠術(メスメルの動物磁気説)による治療でパリ中を賑わしました。

フランツ・アントン・メスメル(1734-1815)は、ドイツとスイスにまたがるボーデン湖近くのイツナングで生まれました。 最初、両親はメスメルを聖職者にしたかったようでイエズス会の神学校に入学させましたが、1760年以降6年間ウイーンで医学を修め、メスメルは医師の免許を修得しています。学位論文は「惑星の影響」であり、この論文をきっかけとして動物磁気の概念を展開するようになります。 天体、地球、生物の相互作用を円滑にする流体が宇宙に満ちているという内容であり、この流体は磁石が持っているのと同じ性質があるとしました。

メスメルの思想の中にはパラケルススの考え方が反映されています。天体や地球から流体が発せられ、ヒトの体の中に流れ込んでおり、このバランスが壊れた場合に病気になるとしています。このような病気には磁石を当てると、悪い流体が体外に流れ出て回復するというものです。 病は、流体の不均衡によって起きると見なし、磁石で人体の磁気をコントロールし、体内の流体の循環の調和をとることで病気が治るとしました。 この手法では、医師が強い磁気流体を放射する能力を持ち、患者の体内に注入され、磁気化された催眠状態による治療とされています。

メスメルの動物磁気による治療の効果の真偽については、空中電気を見つけたフランクリン、化学者ラボアジェ、ギロチンで有名はギヨタン博士などからなる審査委員会が科学的な調査を行った結果、メスメルの概念は想像力で引き起こされるとし、動物磁気としての磁気流体の存在を否定した結果を報告しました。審議委員会メンバーのフランクリンはアメリカのフランス初代大使でした。

パリに入る前の1768年、メスメルはウイーンで裕福な男爵の未亡人と結婚して、医者として開業しました。同時に、メスメルは音楽に玄人なみの素養があったようで、ハイドン、モーツアルトなど音楽家のパトロンとして注目を集めていきました。当時、モーツアルトは12歳、ハイドンは36歳でした。この時、モーツアルトは皇帝ヨーゼフ2世の依頼で、オペラ「ラ・フィンタ・センプリチェ」(みてくれの馬鹿娘)を作曲しましたが、上演にあたってはさまざまな妨害がありウィーンでは上演できませんでした。その時、落胆したモーツァルトを元気づけたのが、メスメルによるオペラ「バスティアンとバスティエンヌ」の作曲依頼であったと言われています。 メスメルはモーツァルトに作曲を依頼しましたが、実際に上演されたとする証拠はないとも言われています。 1789年、モーツァルトはオペラ「コジ・ファン・トゥッテ」の中でメスメルの磁気治療を面白おかしく言及し、メスメルの名前を不滅のものにしました。

メスメルが治療の失敗やスキャンダルによってウィーンを去りパリに入ったのは、フランス革命勃発の10年ほど前でした。1785年にパリを去り、以降20年間は足跡が不明ですが、スイス市民権を獲得し1815年に死去しています。メスメルは次第に忘れ去られて行きましたが、動物磁気の支持者が動物磁気により治療活動を続け、磁気催眠の心霊療法などに動物磁気が取り込まれ、オカルト思想の一端を担っていくことになっていきます。

今日、メスメルの治療は暗示による催眠効果と言われています。わが国では、1880年代後半、メスメリズム、すなわち動物磁気が紹介され、1900年(明治33年)以降、催眠術ブームが起こり、東京帝国大学の福来友吉助教授らが催眠の心理的研究を進めました。この時代、有名なのは1910年頃に起こった千里眼事件です。 熊本の御船千鶴子が、次いで丸亀の長尾郁子が透視の能力を得たと言い出し、福来はこれが事実であると世間に発表しました。 加えて、福来が「念写」を発見したとして世間が騒ぎ始めました。この千里眼事件に関しては、当時の東京帝国大学前総長山川健次郎、地磁気研究の田中館愛橘教授ら一流の科学者が心霊実験の立会人として顔を揃えており、立会人の前で行われた実験から透視は否定され催眠術は減退していきました。

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