フランクリンが有名な凧の実験(1752)により、雷が電気であることを証明し避雷針を考案してから約40年後、イタリア・ボローニア大学の解剖学者ガルバ-ニ教授は、カエルの神経筋が痙攣(けいれん)することから動物電気(生物電気)を発見したとされています。

しかし、既に紀元1世紀には、電気魚のことが知られており、電気魚による電気的治療として、ローマ皇帝クラウディウスの宮廷医者のスクリボニウス・ラルグスがシビレエイを痛風の治療に用いたとされています。 旅行記「新大陸赤道地方紀行」に、電気魚は放電によって馬をも倒すと書いているドイツのアレキサンダー・フォン・フンボルトは、動物電気に興味を持ち、その本質を明らかにする実験を繰り返し行い、電池を発明する一歩手前のところまで到達していたのではないかとされています。

電気魚などで見られる発電現象が生命を営んでいくのに必要な電気現象であるとして学術研究で取り上げられるようになったのは、先に述べたガルバーニ教授(Luigi Galvani、1737-1798)がカエルを用いた実験を行ってからであると言えます。カエルを使い多くの実験を行ったガルバーニは、1737年にボローニアで生まれ、ボローニア大学のガレアッチ教授に解剖学を学び、同大学に勤め、ガレアッチの娘と結婚しました。時代は、ライデン瓶など電気を発生する装置が作られ、電気ショックを治療に用いる研究が進められるようになった時であり、ガルバーニは筋の収縮に関する研究を進めました。当時はヨーロッパを席巻しようとしていたナポレオン(1769-1821)が1796年に北イタリアを占領した頃です。ガルバーニはナポレオンに忠誠を示す宣誓を拒否したために、1798年4月にボローニア大学の職を解かれ、追放され、数ヵ月後失意のうちに亡くなりました。

ボローニア大学で教授として在職中の1786年以降、妻のルチアを助手にしてガルバーニは起電器で起こした電気でカエルの脚を刺激する実験を行いました。起電器によって電気を発生させ、その影響を見る以外にも、空中電気の影響をみるためにカエルの神経筋標本の一端を銅線で抑え、鉄の格子にぶら下げておくと風で筋が鉄の格子に触れると筋が収縮する現象を観察しました。ガルバーニは、この現象を空中電気がなくても筋の収縮が見られるとし、筋肉には電気があり筋と格子が触れるたびに電気回路が出来上がり筋の電気が回路を伝わって流れその電流で収縮が起きるとしました。1791年、これらの結果をガルバーニはボローニア大学紀要に「筋肉の動きによる電気の力」と題するラテン語の論文で発表しました。その中で、ガルバーニはカエルの筋を用いた実験結果から観察した現象を次のように解説しています。「筋はライデン瓶のように電気を蓄え、金属で回路を作ると放電し、この放電によって筋肉が刺激され収縮する。」

今日、電気刺激で刺激興奮するのは神経細胞(ニューロン)であることがわかっています。神経細胞は長い軸索を持ち、ここを電気信号が伝わり、イカのような軸索が広くて大きな神経ではそこに微小な電極を差し込むことで、神経の膜を通して内側と外側とで静止電位、電位差の発生を確認することができます。この神経の興奮や抑制などの電気的活動、活動電位の発生には、Na+、K+などのイオンチャネルの開閉が関与していることは、イギリスの生理学者ホジキン、ハックスレー両教授によって明らかにされています。 両教授は、オーストラリアのエックルズ教授と一緒に1963年にノーベル生理学・医学賞を授与されています。

1791年は、ガルバーニが発表した報告により、「動物電気」、「金属電気」の議論が切って落とされた年であります。ボローニア大学紀要を読んだ物理学者ボルタ(Alessandro G.A.Volta,1745-1827)は、動物電気に興味を持ってガルバーニの実験を繰り返し、その結果を1794年の英国王立学会誌に発表しました。 そこでは、電気を発生するのは筋肉ではなく金属そのもので筋肉の収縮は電気による神経の興奮であるとしてガルバーニの発見を否定したのでした。 ボルタは、1794年度の英国王立協会のコプレー賞を授与されています。

ガルバーニの甥であるアルディーニ(Giovanni Aldini:1762-1834)は、叔父の実験を手伝い、切り離したカエルの脚に電流を流し反応を見る実験を繰り返し行いました。 アルディーニは1794年にボローニア大学の自然哲学の教授になり、その後、1798年にガルバーニが死んだ後、ヨーロッパを旅してガルバーニの動物電気を見世物として行うようになっていました。 ヒトの死体に電気ショックを与え、蘇生させることを見せるような過激な見世物であったとされています。

アルディーニはロンドンでもデモンストレーションを行っており、イギリス・ロマン派の詩人パーシー・シェリーもアルディーニの実験に興味を持ったのではないかと思われます。 会話の中にアルディーニの動物電気の話題があったであろう夫人のメアリー・シェリーが、若干二十歳の1818年に最初のSF小説といわれている有名な「フランケンシュタイン」を発表しています。序文に「おそらく屍(しかばね)をよみがえらせることはできるだろう。 ガルバーニ電流がその証拠を示している」とガルバーニの動物電気が創作のインスピレーションになったことが述べられています。

ガルバーニの発見を否定する発表をした1794年以降、ボルタはさらに色々な金属の組み合わせによる電位差を調べ、最終的に2つの異なった金属を液体につけるか金属の間に湿った布を挟むことで電気が生じることを示しました。最初、ボルタは亜鉛と銀の板を重ね、その間に食塩水を浸した布で電池を構成させました。これを幾重に重ねることにより、パイル(Volta’s pile:電堆(でんたい))を作り電気を取り出すことを発見したとされています。 今日ではこれは接触電位と呼ばれています。試行錯誤の上、ボルタは「異種の導電性物質の接触によって発生する電気について」と題する画期的な論文として取りまとめ、この報告は1800年に英国王立協会の年報に掲載されました。報告の内容は、パイルによって安定的に電気を取り出すことができるボルタ電池の発明は、その後の電気の学術進歩に大きく寄与し今日の電池の発展の基礎となっています。

ガルバーニとボルタが論争をしていた時代はフランス革命の直後であり、ナポレオンが天下を取っていった混乱の時でした。 その流れはイタリアにも及び、ガルバーニとボルタ、共に時代の大きなうねりの中に巻き込まれていったのでした。

ボルタは、北イタリアのミラノ近く、アルプスの麓のコモで1745年に名門の家系に生まれ、33才でパピア大学の物理学教授に招かれています。 ボルタは若い時から、雷などの電気現象に興味を持ち電気盆を発明しています。49才で結婚したボルタは、1794年以降多くの実験の結果を次々と発表して行きました。 1781-1784年にかけて、ボルタはイタリアからイギリス、フランス、ドイツなどへ旅立ち、ラボアジェ、フランクリン、リヒテンベルグなど当代の著名な科学者と会っています。 また、ボルタは、ナポレオンに忠誠をつくして気に入られ、レジョン・ドノ-ル勲章が授与されています。 1803年、彼はナポレオンにパビア大学の教授の職を退くことをナポレオンに願い出ましたが、ナポレオンは、この願いを拒否する一方で、ボルタへの年金を増額しています。その後、1819年には大学を去ってコモに戻り、1827年に82才で亡くなっています。

1790年代以降、ガルバーニによる動物電気、ボルタによる金属電気の論争がなされました。この動物電気と金属電気の論争はそれぞれ科学的な真理を掴んでいたことから、その後の学術の発展に大きく寄与しました。ガルバーニの動物電気の実験からは電気生理学が基礎科学の一分野となっていき、ボルタの金属電気の実験は、電池の発見、ひいては現在の電磁気学の発展に寄与することになっていきました。ちなみに、福沢諭吉の有名な福翁自伝を見ると、「ガルヴァニの鍍金法というものも実際に使われていた。(原文)」と、ガルバーニが電気の代名詞のような言葉で書かれています。 また手元にある英和辞典を見ると、「Galvanism」、「Galvanize」、「Galvanometer」、「Galvanotropism」など多くの専門用語がガルバーニの名にちなんでいることが分かります。 また、ボルタは、電圧の単位名、ボルト(Volt:V)に名を残しており彼の業績が燦然(さんぜん)と輝いています。

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